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ルシフェラーゼ連載エッセイ

連載エッセイ ~Elucをめぐる旅の物語~

生命科学の大海原を生物の光で挑む

投稿日 2018年04月19日

近江谷 克裕
第50回 Elucをめぐる旅の物語
-ふたたびインド・アムリトサルにて-
近江谷 克裕
産業技術総合研究所 バイオメディカル研究部門
ふたたび国境に立つ。今回はホストの好意で、国境警備兵に連れられ国境近くのフェンスまで行くことができた。そこで見たものはインドとパキスタンのゲートに挟まれた白い一本の線であった(写真1)。国境線というが本当に線があったことに素直に驚いてしまった。白い線を定めているのは三角点であった(写真2)。反対側にある三角点と線を結ぶことで、白い線は引かれているのであろう。

今回も国境で繰り広げられるセレモニーは感激モノだが、座った場所からパキスタン側もよく見えた(写真3)。インドという、厄介な隣国に負けじと繰り広げるセレモニーはちょっと元気が足りないようにも見えたが、緑の服を着た盛り上げ隊の演者の必死さだけは伝わった(写真4)。だが、陽気なヒンズー教徒中心のインドから比べれば、イスラム教徒の国は厳粛なのかもしれない。国境で繰り広げられる2つの国家のセレモニーという戦いはインドに分がありそうだ。インドに居ながら、頑張れパキスタンとは変かもしれないが、セレモニーではパキスタンを応援したくなった。

パキスタンがイギリス領インドから独立したのは1947年。表向きはヒンズー教徒とイスラム教徒の国を別々な国にしようとしたわけだが、さらに、東パキスタンはバングラディシュとなり、今のパキスタンが成立した。インドという大国に比べれば、パキスタンは経済力を含めて国力の差は歴然としている。また、部族意識が未だに残り、内政も不安定な状況が続いている。しかも北には中国、ロシア、東にインド、西にはさらに不安定なアフガニスタンと地政学リスクをはらんでいる。考えるだけでも厄介な隣国だらけである。こんな隣人がいれば、私なら逃げ出したくなるだろう。独立するとは大変なことのようだ。

過日、お世話になっているカルナバイオサイエンス株式会社の創立15周年記念パーティーに参加させていただいた。ここまで来たぞ15年、まだまだこれからの15年、さらなる希望の15年といろいろな思いを抱いたが、一つ一つの歴史を重ねるベンチャー企業に、大げさだが明日の日本を見たような気がした。最近、感じていた閉塞感が少しは和らいだ。まだまだ、日本には力が残っているのかもしれない。ベンチャー企業という小粒の存在が、大げさだが次の日本を作るのではないだろうか?

この50年間で多くの国が独立した。隣国の圧力、大国のエゴ、そして内部の不満など、独立の道は平たんではない。でも、独立は自ら選んだ道であり、押し付けられたこともあるだろうが、自ら国境という線を引いたはずだ。国境に立つと国境線が単に他国と自国を区別する線であるだけではなく、ここから何かを始めるという原点であることが理解できた。また、国境で繰り広げられるセレモニーは単なるパフォーマンスではなく、国民を鼓舞するものなのだろう。そう思ったとき、会社を立ち上げることも同様なことかもしれないと感じた。ベンチャー企業に未来を感じるのはそのせいかもしれない。
  • 写真1 国境線は白い線であった。
    写真1 国境線は白い線であった。
  • 写真2 国境線を引くための三角点。これを越えることはできない。
    写真2 国境線を引くための三角点。これを越えることはできない。
  • 写真3 コマンダーの後ろにパキスタン人の観客がいるが、インド人程、大騒ぎはしない
    写真3 コマンダーの後ろにパキスタン人の観客がいるが、インド人程、大騒ぎはしない
  • 写真4 緑の服を着た盛り上げ隊の演者
    写真4 緑の服を着た盛り上げ隊の演者
著者のご紹介
近江谷 克裕(おおみや よしひろ) | 1960年北海道函館市に生まれる。1990年群馬大学大学院医学研究科修了。ポスドクなどを経て、1996年静岡大学教育学部助教授、2001年より産業技術総合研究所研究グループ長に就任、2006年10月より北海道大学医学研究科先端医学講座光生物学分野教授に就任、2009年より再び産業技術総合研究所研究主幹研究員を経て、2012年より現産業技術総合研究所バイオメディカル研究部門研究部門長に就任。生物発光の基礎から応用まで、生物学、化学、物理学、遺伝子工学、そして細胞工学的アプローチで研究を推進する。いまでも発光生物のフィールドワークがいちばん好きで、例年、世界中の山々や海で採取を行っている。特に中国雲南省、ニュージーランドやブラジルが大好きである。
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