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ルシフェラーゼ連載エッセイ
連載エッセイ ~Elucをめぐる旅の物語~
生命科学の大海原を生物の光で挑む
投稿日 2024年07月19日

- 第125回 Elucをめぐる旅の物語-ブラジル、サントアンドレにて-
- 近江谷 克裕
産業技術総合研究所 バイオメディカル研究部門
国際会議のあと、ABC連邦大学を訪問した。連邦大学があるサンアンドレ市は、およそ1200万人が住むサンパウロ市から20Kmほど離れた街で、70万人ほどの人々が暮らしている(写真1)。ABC連邦大学は2006年に開学したブラジルでは新しい大学の一つだが、周辺のサンア(A)ンドレ、サンベ(B)ルナルドドカンボ、サンカ(C)エタノドスル市の3つの文字を組み合わせてABCと命名されたそうだ。大学院生時代から面倒をみたDanilo君が助教となったのを機に、訪問することにした。ABCの3都市はブラジルでも有数の工業地帯に位置し、これらの街に相応しい実学中心の大学である。街全体も小奇麗で、そのキャンパスもコンパクトであるが活気に満ちた大学であった(写真2)。
サンアンドレ市滞在中に、市内の南東にあるパラナ・ビアカーバ駅に行ってきた。ここは1867年に開通したサンパウロ鉄道の中継地であり、今も貨物輸送を中心に活用されている。この街から見える海岸山脈(Serra-do-mar)の頂上に立てば、大西洋はすぐそこである(写真3)。サンパウロ市と大西洋に面した港湾都市サントスとはわずか60Kmほどしか離れていないが、この2つの都市の標高差は800m、その途中には屏風のような海岸山脈が立ちはだかっている。パラナ・ビアカーバ駅はサンパウロに近い海岸山脈の麓の街でもある。
海岸山脈はブラジルの大西洋側に沿うように立ちはだかり、鉱物や農産物が豊かな内陸部と貿易港の間の巨大な壁となっている。19世紀の人々はサンパウロの豊かな産物を運ぶ方法を模索し、サントス港から、このパラナ・ビアカーバ駅を支点としサンパウロにつながる鉄道を開発した。当初、最も標高差のある部分はケーブル方式で貨物車を運用したようだが、最終的には軌道を整備、かつ大型のスイス山岳用気動車を用いて、サンパウロ鉄道は活用され続けている(写真4)。現在、ブラジルでは高速道路を中心としたトラック輸送が中心であるが、今もサンパウロ鉄道は重要な交通網の一つである。パラナ・ビアカーバ駅には鉄道博物館もあり、多くのブラジルの人々の憩いの場でもある。
さて、日本の鉄道は新橋-横浜間で1872年に開業しているので、ほぼ同時代に、日本とブラジルで鉄道開発が行われていたことになる。日本で山岳鉄道として有名なのは碓氷峠(標高956m)を超える横川-軽井沢間の鉄道だろうが、この開業は1893年のことである。19世紀から20世紀にかけての資源争奪戦の時代に、世界中で鉄道は国を支える力となったのだろう。サンパウロ鉄道があってこそのブラジルの発展なのだろう。
海外出張の間、「それからの海舟(半藤一利著、ちくま文庫)」を読んでいた。明治20年(1887年)、勝海舟は日清戦争を前に、「多くの人を徴兵する代わりに、鉄道敷設に費用をかけなさい。」と時の政府に建白している。やせ我慢の海舟と言われつつも、彼は将来の国づくりを誰よりも考え、平和な社会とは何かを提言し続けたのだろう。同時代にサンパウロ鉄道が開業したことを思うと、この時代の人々の中には、確かな目で、将来を見据える人々がいたのだろう。ともすれば、近視眼的な昨今、ありふれた将来構想、或いは貧困なる精神の元で、そして直近の出来事に目を奪われて将来に投資するのは如何なものだろうか?やせ我慢と言われても良いから批判を恐れず、将来を語ることが、今、必要ではないだろうか?
サンアンドレ市滞在中に、市内の南東にあるパラナ・ビアカーバ駅に行ってきた。ここは1867年に開通したサンパウロ鉄道の中継地であり、今も貨物輸送を中心に活用されている。この街から見える海岸山脈(Serra-do-mar)の頂上に立てば、大西洋はすぐそこである(写真3)。サンパウロ市と大西洋に面した港湾都市サントスとはわずか60Kmほどしか離れていないが、この2つの都市の標高差は800m、その途中には屏風のような海岸山脈が立ちはだかっている。パラナ・ビアカーバ駅はサンパウロに近い海岸山脈の麓の街でもある。
海岸山脈はブラジルの大西洋側に沿うように立ちはだかり、鉱物や農産物が豊かな内陸部と貿易港の間の巨大な壁となっている。19世紀の人々はサンパウロの豊かな産物を運ぶ方法を模索し、サントス港から、このパラナ・ビアカーバ駅を支点としサンパウロにつながる鉄道を開発した。当初、最も標高差のある部分はケーブル方式で貨物車を運用したようだが、最終的には軌道を整備、かつ大型のスイス山岳用気動車を用いて、サンパウロ鉄道は活用され続けている(写真4)。現在、ブラジルでは高速道路を中心としたトラック輸送が中心であるが、今もサンパウロ鉄道は重要な交通網の一つである。パラナ・ビアカーバ駅には鉄道博物館もあり、多くのブラジルの人々の憩いの場でもある。
さて、日本の鉄道は新橋-横浜間で1872年に開業しているので、ほぼ同時代に、日本とブラジルで鉄道開発が行われていたことになる。日本で山岳鉄道として有名なのは碓氷峠(標高956m)を超える横川-軽井沢間の鉄道だろうが、この開業は1893年のことである。19世紀から20世紀にかけての資源争奪戦の時代に、世界中で鉄道は国を支える力となったのだろう。サンパウロ鉄道があってこそのブラジルの発展なのだろう。
海外出張の間、「それからの海舟(半藤一利著、ちくま文庫)」を読んでいた。明治20年(1887年)、勝海舟は日清戦争を前に、「多くの人を徴兵する代わりに、鉄道敷設に費用をかけなさい。」と時の政府に建白している。やせ我慢の海舟と言われつつも、彼は将来の国づくりを誰よりも考え、平和な社会とは何かを提言し続けたのだろう。同時代にサンパウロ鉄道が開業したことを思うと、この時代の人々の中には、確かな目で、将来を見据える人々がいたのだろう。ともすれば、近視眼的な昨今、ありふれた将来構想、或いは貧困なる精神の元で、そして直近の出来事に目を奪われて将来に投資するのは如何なものだろうか?やせ我慢と言われても良いから批判を恐れず、将来を語ることが、今、必要ではないだろうか?
写真1 ホテルの窓から見えたサンアンドレ市の景色は、ビルだらけの街。
写真2 ABC連邦大学は3つのビルがコンパクトに地下でつながっている。
写真3 パラナ・ビアカーバ駅には貨物車が、その先には海岸山脈の屏風がある。
写真4 サンパウロ鉄道の大型のスイス山岳用気動車が力強く貨物を牽引する。
- 著者のご紹介
- 近江谷 克裕(おおみや よしひろ) | 1960年北海道函館市に生まれる。1990年群馬大学大学院医学研究科修了。ポスドクなどを経て、1996年静岡大学教育学部助教授、2001年より産業技術総合研究所研究グループ長に就任、2006年10月より北海道大学医学研究科先端医学講座光生物学分野教授に就任、2009年より再び産業技術総合研究所研究主幹研究員、研究部門長、首席研究員を経て退職、2025年より大阪工業大学、ブカレスト大学客員教授として研究を継続する。生物発光の基礎から応用まで、生物学、化学、物理学、遺伝子工学、そして細胞工学的アプローチで研究を推進する。いまでも発光生物のフィールドワークがいちばん好きで、例年、世界中の山々や海で採取を行っている。